クリスマスの起源と当時の世界

日常の取り組み

クリスマスの起源とは

「クリスマスを英語表記にすると「Christmas」。「Chirist」はキリストのこと、「mas」はミサ(礼拝)をそれぞれ意味します。

つまり、キリストのミサと言う意味を持っており、ここで言うミサとは降誕祭のことを表しています。降誕祭は「生誕を祝う祭り」のため、よく言われる「イエス=キリストの誕生日」という認識は間違いということがわかります。

キリスト教や聖書には、イエスが生まれた日が12月25日だとの明確な記述はありません。そのため、生まれた日ではなく、生誕を祝う日となります。

キリスト教のカトリック教会において、イエスの誕生をみんなで祝うようになったことが現在のクリスマスの始まりだと言われています。

カトリック教会では、教徒が集まり祈る場を『ミサ』といいます。「キリストを祝うミサ」「キリストミサ」それが次第に「クリスマス」という呼び名となったと言われています。

イエスの降誕

イエスの降誕については聖書に詳しく記されていますが、クリスマスの起源を正しく理解しておくために内容を簡単に記載しておきます。

もともと、イエスの母・マリアには、ヨセフという婚約者がいました。

しかし、結婚する前、つまり乙女だった時点で神の業によりイエスを身ごもります。

ヨセフの両親、はては村人たちまでも、マリアの不貞を疑い激しくののしりました。

そして、不潔なマリアに罰を与えるために捕まえようとしました。

しかし、ヨセフは、決して不貞はしていないというマリアの言葉を信じました。

そして二人は、追手から逃れるために、ある馬小屋に身を隠します。

陣痛が始まったマリアは、その馬小屋で男の子を出産します。

その子がイエスであり、後に数々の奇跡で人々を救い、神の子と呼ばれるようになるのです。

クリスマスはいつから始まった?

有力な説では2~4世紀の古代ローマ帝国時代が起源であるとされています。

その頃ローマ帝国の東に位置するペルシアからミトラ教という宗教が伝わってきました。

ミトラ教は太陽を信仰しており、年に1度、冬至の時期に「光の祭り」と呼ばれる行事を行う宗教でした。

すでに当時のローマ帝国では冬至であった12月25日に農耕の儀式を行う習慣がありました。そこで2つの行事を合体させる形でキリストの降誕祭を制定。

キリストを光に例え、「光(太陽)の復活はキリストの復活」とすることで、宗教同士の対立を避けようとしたそう。結果として対立を回避するだけでなく、キリスト教を民衆に浸透させるきっかけとなった。

2〜4世紀の世界情勢

【日本】

2〜4世紀の日本は弥生時代〜古墳時代になります。

九州北部で始まった水稲耕作は、やがて九州南部から東北地方まで各地に広まり、食糧の保存ができるようになり、貧富の差が発生し、小国家が形成された時期になります。

小国家では、戦いに備えた環濠集落や高地性集落がつくられたり、武器としての弓矢が用いられ、次第に大きな国家が誕生しました。

中国の三国時代について記した歴史書である『魏志』倭人伝によれば、2世紀後半ごろからはげしくなった倭国の大乱は、3世紀はじめ、卑弥呼という女性を王に立てることによっておさまったといいます。

卑弥呼は倭の国々が共立した王で、彼女が女王としておさめた国が邪馬台国です。

卑弥呼は、邪馬台国を中心に約 30 の国々を支配したといわれています。

卑弥呼には、呪術を用いて宗教的な儀式を行う司祭者としての側面と、魏の皇帝の権威を借 りて国内をおさめ、狗奴国との対立で優位に立とうとする政治家としての側面があったと考えられています。

邪馬台国の所在地については、歴史学や考古学だけでなく、広い分野も交えて長い論争が続 いているが、いまだ確実な証拠が得られておらず、結論は出ていません。

3世紀後半ごろには、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけて出現した前方後円墳と呼ぶ大きな墳丘をもつ古墳は、しだいに西は九州南部、東は東北地方南部にまで広がっていきます。形や副葬品が共通する古墳が各地に広まったことは、それまでの小国を統一する王権が誕生したことを意味すしています。

その中心は大和を中心とした近畿地方で、4世紀初めの倭国では、古墳を造った各地の王が、大和地方の王を盟主として政治的な連合体を形成するようになったと考えられます。

これを大和王権と呼び、大和王権の王は、大王と呼ばれるようになります。

この 古墳がさかんに造られた3世紀後半ごろから6世紀ごろまでを古墳時代と呼びます。

【中国】

2世紀末に、自然災害が頻発し、社会に動揺が広がるなか、「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」をスローガンに、道教の信徒たちによる黄巾の乱が起こると、後漢の皇帝の権威は急速に衰え、天下は群雄割拠の状態となりました。

いわゆる有名な三国志の時代です。

諸葛亮から「天下三分の計」を示された劉備は、孫権と連合して曹操を赤壁の戦いで破り、魏・蜀・呉が並び立つ状勢を生み出されました。

曹操の死後、子の曹丕が漢の献帝から禅譲を受けて皇帝となると、劉備と孫権も相ついで皇帝に即位し、天下に複 数の皇帝が並び立ちました。

この背景には四川、江南といった長江流域の社会の発展があったと言われています。

三国の対立は、一面では中国の分裂であったが、一面では長江の上流や下流に、新たな中国文化 の中心地が生まれ、中華世界が拡大したということでもあった。

【ヨーロッパ】

紀元前からローマは 500 年にわたって共和政の伝統を守りつづけ、カエサルの登場とともに独裁権力が生み出されるが、帝政を始めた初代皇帝アウグストゥスは、共和政の伝統である元老院を 重視し、市民が政治をチェックする仕組みを尊重した。

1〜2世紀には、ローマはローマの 平和(パックス・ロマーナ)と呼ばれる最盛期を迎えました。

また、ローマは支配した土地にロー マ風の街をつくり異なる民族でもローマと同じ豊かな生活が送れるようにするだけでなく、そ の土地の宗教や風俗習慣を認めた。

古代ローマ帝国の衰退は、3世紀の軍人皇帝が乱立した時代に始まったと言われています。

皇帝は軍事力や経済 力にものをいわせ共和政の伝統は軽んじられるようになる。そうして独裁体制が生まれると暗 殺が相次ぎ、皇帝の権威は失墜していきます。

皇帝はキリスト教を認め、その力を利用することで 権威を取り戻そうとしましたが、「ゲルマン人の大移動」の混乱のなかで、4世紀末、帝国は東西に 分裂し、やがて、さらなる混乱が重なり、476 年、西ローマ帝国は滅亡しました。

今回、キリスト教の起源となった時代でそれぞれの地域でどのようなことが起こっていたかを比べてみましたが、横断的に見てみると違いがわかって面白いですね。

皆様も良いクリスマスをお過ごしください。

では、また。

コメント

タイトルとURLをコピーしました